人生の終え方から
7月の末に母を亡くし、来週四十九日を迎えます。
大阪在住の母は膵臓がんを患い、いよいよ食事ができなくなって7月11日に入院。
入院当初、病院の先生から、あと1〜2ヶ月の余命と伝えられていましたが、
その1週間後には、あと1〜2週間だと余命を再宣告されました。
慌てて大阪に行った私が、福岡に帰ると告げていた日に旅立ちました。
距離があるので、親の死に目には会えない覚悟をしていました。
それが、(弱っていきながらの5日でしたが)
最後の5日間を見舞うことができ、
息をひきとる瞬間にも手を握って傍らで声をかけることができ
滞在を延ばして通夜と葬儀にも出られました。
これ以上のお別れの仕方はなかったと思います。
今年中に逝くのだろうと、本人も周りもわかっていました。
がんが分かってすぐの春先には私と二人で生まれ故郷の函館に帰りました。
入院中の弟を見舞い、大好きな函館山からの夜景を見て
両親(私の祖父母)の法要に出て、親友と会い、懐かしい好物を食べ
がんに効くという温泉に足を伸ばし、高齢の叔父にも会いました。
人生2度目の母娘旅行は盛りだくさんでした。
急に決まった里帰りだったので私は仕事を持っていきましたが
ほとんど作業時間を取ることができず
福岡へ戻ってから、まあまあの修羅場を乗り越えました。
7月の入院当初はLINEや、時には通話ができる程度には元気でした。
「思い返せばいい人生だった」というLINEは、
未来の私を何度か救うだろうと思います。
年齢も家族構成もそれぞれの事情も違うので
一概には言えない…というか言えるわけがないのですが
「私の母」に関しては、がんで死ぬというのは幸せなことだと感じました。
行きたいところに行けて、会いたい人に会えて、
見たい景色を見て、食べたいものを食べて
身近な人に、かしこまって残した言葉はなかったけれど
最後の言葉は「ありがとう」と読唇できました。
きっと、過不足なく、伝えるべきことは伝えたのだと思います。
きつい治療もしないと決めて、少しずつ覚悟を重ねながら希望も持ちながら
医者が言うよりも少しだけ長い時間、元気でいられました。
羨ましいような、私もそうしたいような最後ではありましたが
まだ、もう少し先のことにしておきたいのが現状です。
「特段急がないけれど近いうちにはやらなきゃリスト」にある項目の
がん保険を含めて医療保険を見直す とか
(叔父のことも膵臓がんで亡くしているのでやっぱり注意なのかなあ)
健康診断に行く とか
(先のことですが、12月の予約を取りました)
エンディングノートを書く とか
(母に渡したエンディングノートは真っ白のままで、色々困りました)
このあたりの優先順位が上がってきています。
四十九日が過ぎて少し落ち着いたら、きちんと自分のことも考えようと思っています。
(加世田侑季)
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